年賀状は嫌い。
年末が近づくと憂鬱になる。
今年も年賀状を作らなければならないからだ。夫は、そこはすごくキチンとしていて、かなり前から年賀状を作り始め、必ず元旦に届くように投函する。
律儀に、去年くれた人全員に、だ。
しかし、我が家に元旦に届くと年賀状はいたって少ない。2日、3日…と、少しずつ増え、6日や7日になってようやく届くものもある。
後からコンビニで慌てて購入して出した、というように一言の手書きもない印刷だけのもの。ご丁寧に、「お子さん、お母さん似ですね。」と、後出ししましたと、堂々と書いてくるもの。
全部ではないけれど、ハガキそのものから
「面倒なこと、させんなよ」という空気が漂っている気がする。
そして、それでも、こちらが出した枚数より、毎年確実に帰ってくる数が減っている。そして、それは、学生時代の友達だったり、上の子のママ友だったりするが、いつも私ばかり。
年の初めに、文字通り人間関係を切られるのだ、もうあなたから連絡しないで下さいと、それも毎年。
届かないハガキ一通に落ち込み、引きずる、私はそんな暗くて面倒くさい人間だ。
本当はそんな切ない年明けはもう辛い、年賀状はもうやめたい。そんなこと、夫に言えるはずない。
自意識過剰じゃない。
ネットの人生相談を眺めていると、私と同じような人を見かける。
・どこに行っても嫌われます。
・職場で孤立しています。
・ママ友が出来ません。
どれも、私が書き込んだような辛い話。経験者だからこそ言えるのは、
「それはあなたが、そういう人生に生まれてきたから。」
身もふたもないけれど、私や相談者の方達は、生れながらに人気者気質で、いつも明るい光の中にいる人達の同じ数だけいる暗い影なのだ。
でも、相談者の悩みに対していろいろとポジティブなコメントがつく。中でも、目立つのが
「そんなのは、相談者さんの自意識過剰ですよ。他人はあなたのことをそんなに気にしていませんよ。」
と、いうもの。
きっと、親切心と励ましから来る善意の回答。そして、周囲のちょっとした反応に怯え、悩んだことのない幸せな人。
他人の悪意は露骨だ。
自分に向けられる冷たい視線。もしくはわざと逸らされる目線。わざと聞こえないふりされる耳。尖って取りつく島のない言葉。好意を持っている人て明らかに異なる態度。
それを全部、気にしすぎ、自意識過剰と思い込めたらどんなに幸せか。
自分が避けられてる、嫌われてると感じたら、それは大体事実だ。
相手はそのことを伝えたくて態度に出しているのだから。
その相手に、それは自分の自意識過剰だから、といつまでも変わらぬ態度で、笑顔で挨拶なんて、わたしには到底できない。
ポイ捨て関係
先日、学校行事で、去年まで「ぶるるちゃんがいてくれてホントに良かったよ〜」と、言ってくれていたママ友と会った。
最近、お気に入りのママさんと楽しそうに話していて、こちらから挨拶すると、チラ見して「あぁ」と、軽く手を挙げただけで、スルーされた。
近頃、ランチをしたりラインをすることもほとんどなくなっていたが、あまりの態度に今も胸がざわざわと嫌な気分だ。
私の思い込みではなく、そのママさんは確かに一時期、私を頼りにしてくれていた。
彼女のお子さんが友達関係につまづいた時、夜中の電話にも付き合ったし、それでも辛そうな時は、うちでずっと話しを聞いたりもした。彼女が私用で出かける時にお子さんを預かったりもした。
でも、新しい仲間が出来てもう用済みだからポイ捨てされたんだよね。
あなたはもう私なんかいらないんだよね。今までいろんな人に同じことをされてきたから、よくわかっているよ。
私だって、もうあなたはいらないって言えたらどんなにいいか。でも、疎遠になってひとりぼっちになるのは私だけだ。
こんなに拒否ばかりされて、なんのために、私は生まれてきたんだろう。そして何のためにこれから生きていくのだろう。
休止
肩こりからく頭痛がひどい。
珍しく携帯に向かう時間もつらいので、今日は何も記さず終わる。
嫌われ者が母になると。
昨日、その辺に落ちていた息子のメガネケースを何気なく拾い上げると、デカデカと放送禁止用語と卑猥な絵が書いてあった。
息子に尋ねると、友達がふざけて書いちゃった、とあまり気にしてない様子だ。
数年後には成人する息子の人間関係にあまり口出しするつもりはない。でも、私の中には暗くてもやもやした気持ちが湧き上がったままだ。
ずっと、他人から嫌われてきた私は人の負の感情に敏感だ。
この歳から自分に向けられた悪意ならもう耐えるしかないが、それが大切な子ども達だと話は別。
それが、本当に単なる仲間内のからかいやいじりなのか、それとも隠しているだけで既にいじめの範疇なのか。
思わず担任に電話しかけたが、本人は嫌がるだろうと思って踏みとどまった。
子ども達には、よく、私は心配性で大げさだと呆れられるが、自分と同じ辛さだけは味わって欲しくないのだ。
映画の中の夢
娘には好きな映画がある。
「チャーリーとチョコレート工場」と言う映画だ。
テレビ放送でハマったらしく、誕生日にDVDを購入し、もう何十回となく観ている。飽きないものかと思うが、何度、観ても楽しいのだそうだ。
今まで、何十本と映画を観てきたが、心に残る一本がいまいち思い浮かばないわたしからすると、ちょっとうらやましい。
その映画に登場する、ジョニーデップ扮するウィリーウォンカが作っているウォンカチョコは実際に、日本でも買える。
そして、その中には物語と同じ金のチケットが当たりクジとして入っているものがある。
毎年、サンタとは別にクリスマスプレゼントとして、ウォンカチョコを子ども達に一枚ずつあげている。
子供達は勇んで包み紙を破り、残念ながら金のチケットが入っていないのを確認すると、そのままチョコを放置する。
このチョコ、海外のお菓子らしくめっぽう甘い。そしてデカイ。一枚が結構、高価なのに子ども達には不評だ。
もったいないので主に私が冷凍庫に入れてちびちび春先まで食べることになる。
夢があるのは、やっぱり映画の中だけなのだ。
喋れない。
最近、家族以外の人がと本当に喋れなくなってきた。
お店や学校など、話す必要や義務があったりする時は別だが、普通の人と普通に話すことが出来ない。
幼稚園の頃から、ずっと他人に、避けられ、嫌われ、軽んじられ、そして去られてきたので、どうやって同じ立ち位置で話したら、相手に不快な思いをさせずに、余計なことを言わずにいられるのかわからない。
たまに、ジムなどで親しげに話しかけてもらったりしても、上がってしまい、しどろもどろになってしまう。
学校などで、立ち話しても、うまく話が続かない。本当は私と話しても今つまらないんだろう、と思うと、もうその場を去りたくて仕方ない。
こんな私でも、こちらから誘えばランチに応じてくれる友達は、ほんの少しだがいる。でも、また空気が読めず失敗したり、相手の言葉を深読みしてしまいそうで、気が重くなり、なかなか連絡を取る気がしなくなる。
どうしたら普通に会話ができるのだろう。
こんなことをグズグズ考えるからだめなのだ。